K・リテラシー

ジャーナリストKANAME EIGHTの8つの視点から持論を展開。

危機管理と陰謀論

米国民主党バイデン大統領/ロシアのプーチン大統領

数億円単位のお金を動かすような人間でもファクトチェックという観点になるといきなり劣化した感を覚えることが多い。

最近流行りの陰謀論ベースであればバイデン悪玉説、プーチン善玉説が際たるものだが、少なくとも「現地情報」を日々聞いている自分の視点から話せば「ネットで話されているようなバイデン悪玉説、プーチン善玉説」等は全て的外れというか、明後日の方向も甚だしく、経済的には成功者でも何故「情報」になるといきなり劣化するのかが兼ねてからの謎ではあった。

 

事実確認をしていなければ全て「思い込み」の範疇を超えないのだが、100人中一人が

これを理解すればいいぐらいで、個人的には「ほぼ全滅」といった感を覚える。

この国際政治に関するファクトチェックという観点が抜けることについては恐らくは

そもそもが国際紛争の多くが日本人にとって対岸の火事であり、ファクトチェックの必要性を伴わないものであれば実感としてそれについて考えるという行動に至らないということである。

私は時々「事実確認をしていないことを何故、盲目的に信じるのか」と言った話をするとそこそこ経済的に成功した著名人でもみんな「ポカン」とした顔をする。

ニュース等で語られる国際紛争等のネタについてはそもそも事実確認をするネットワークがないのだから確認できないということもあるが、確認をする必要性がなければ、その部分が磨かれないとことについては平和な日本においては致し方がないことかも知れない。

一方で、戦況によっては食えなくなるような環境下にいる人間、自分の生命が左右される環境下にいる人間は異次元の発想をしているように当初は感じたものだが、彼らの情報を元にファクトチェックをする習慣がつくようになると同じような視点で考えることが出来るようになり現在に至る。

それだけ日本人は危機管理については穴だらけということになる。

極端な話をすれば危ないところに行かない、ボヤを出さない、戸締りをしっかりするぐらいが日本人の危機管理の限界と言ったところか。考えなくて済む環境下で生活する日本人はある意味で幸せな民族と言えるのかも知れない。

#ウクライナ侵攻 #危機管理 #国際政治

 

国際政治における情報収集とジャッジメントについて

国際政治を語る上で感じる難しさは、海外を頻繁に渡航しているような人物でも、定義付が全て曖昧であるということで、人間性の良し悪しは全く別であるということ。

 

酒席で政治の話は危険な為、基本的に私は静かに聞いているだけだが、99%前提となる

ソースや認識に誤りがある為、側から話を聞いている自分からするとやはり政治の話は恐ろしいなと思った。

仮想敵を設定する場合においても何故それが「敵」なのかと言った部分についての定義も曖昧で、そもそも一般的な人間の会話の中にいちいち定義を考えながら話す人はいないのかも知れないが、これで政治の話が成り立っているとなるとどんどんと真実から遠ざかっていくことになる。

 

一方で地方政治についての情報は極めて精度が高い場合が多く、実際に目にしたアナログ情報とファクトで構成されている雑談が多く、ダチョウのように足で歩いて確認出来る情報については正確だが、歩いて海外に渡ることが出来ない以上、なんだかふわっとした話になるのは当然と言えるかも知れない。

 

その視点で考えると足で歩いた、現地で見聞きした情報を入手するルートがない人間の話は全て「仮説」「予想」酷い場合は「空想」「妄想」の産物である場合がほとんどで

多くの場合は誤りであることがわかる。

また海外渡航が頻繁にあるにせよ、必要な情報が集められないのであれば、行かないよりはマシだが、そもそも情報が集まらない以上、正確なジャッジは出来ないということになる。

冷静に考えると一般人には不必要な情報であり、インテリジェンスに関わる人間にとっては致命的な部分になるということである。

 

#ウクライナ #ロシア #国際政治

 

ウクライナ侵攻に後出しジャンケン論法で破綻する人々を見て思う。

6月27日(火)BS-TBS「報道1930」より

 

個人的には忙しく暑い日々が続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか

巷のウクライナ侵攻についての話を見聞きすると、いわゆる親露派と呼ばれる人々の破綻ぶりが相当目立ってはいるが、恐らくはリアルタイムで侵攻しているウクライナ侵攻については陰謀論者得意の「後出しジャンケン」が通用しないことが要因だと思われる。

後出しジャンケンをしても起きてしまったことに色々、色付けや意味付けは現在や未来に生きる人間にはどうとでも解釈が可能にはなる。例えば、千利休明智光秀だった説、また天海和尚だった説があるが、これも後世の人間の「言葉遊び」みたいなもので明確なFACTがない限りは決着がつかないということになる。

少し頭が回れば、今のウクライナ侵攻に歴史オタのような後付け理論は非常に危険であることに気が付くはずではあるが、承認欲求と自己顕示欲を拗らせて確証バイアスに至ってしまった場合、正常な判断が出来なくなるらしい。

代表的な物を例に出すとプリゴジンの乱はプーチンプリゴジン出来レースという話だが、リアルタイムで報道を見ていればあり得ないことがよくわかるはずだが、現在進行形の出来事に後出しジャンケンは自殺行為以外のなんでもない。

本当に賢い人間は「その可能性がある、そのように見える」といった表現しかしないものである。

実はこの考え方は普通の人には難しく思えるらしい。

理想と現実がごっちゃになるということはよくあることだが、心配事がただの杞憂に終わるケースを度々体験すると、多かれ少なかれ、人は無意識に想像で自分自身の思考や行動に制限をかけているもので、何かの統計で96%以上の心配事は実際には発生しないという話を聞いたことがある。数字の実際はわからないが、おおよそはそういったものであるような気はする。

強い決意は必要だが、希望的観測に「断言」は危険である。

これは恋愛に例えるとわかりやすいが、こちらが一方的に運命の人と思っていても

相手もそう思っているとは限らないのだから、運命の人を中心に自分の人生設計を考えると破綻するに決まっている。

例えば起業すればわかることだが、アルバイト一人と言えど、理想を共有することは中々大変な作業ではある。

人は根拠のない「自分なら大丈夫」と思っているが、それは自分自身の行動や思考を支コントロールする上においての「大丈夫」なら良いが、そこに第三者を自分の思考の支配下に置くことを考えているのならば危ういということになる。

結局、中国やロシアのような専制主義(独裁)国家のような国は自分の支配下に置こうとするから恐怖政治が始まる。

恐怖は万人をコントロールする上においては非常にわかりやすい手法の一つと言える

のだが時代を超えて「飴と鞭」という表現は乱暴だが人をコントロールするわかりやすい一例ではある。

ちなみに前述の千利休明智光秀説だが、これは裏千家の家元に秘伝(口伝)でそのように伝わっていると言う話を聞いたことがある。

当然、口伝だから言った言わないの世界であるが、後から口伝を書き記した何かが出てくれば事実に近くなるとは思うのだが、秘伝を何故、あなたが知るのか?と問われると

確かに答えにくい話ではあるのだが実際に聞いた話ではある。

個人的には千利休の正体が明智光秀でも天海和尚でもどちらでも構わないので、この手

の議論を熱くするつもりはない。

#ウクライナ侵攻

マーケティングの出来ないコンサルタントと素人インフルエンサーの話。

マーケティングの出来ない「SNSコンサルタント」が増えているという話を耳にする機会が増えたが、確かに私が顧問をしていた企業にいたコンサルタントは誰一人として「コンサル」が出来ていたものはおらず、例えばWEBページを綺麗に作るとか、定期的にアクセスデーターを送ってくるだけといった類の人間しかいなかったような気がする。

マーケティングを生業としている人間からすると、htmlやphp等のコードを理解して、それをwebページに実装出来る能力とHPから集客をする能力は別物である。

むしろ、コーディングを主な得意技としている人間にマーケティング視点を持った人間はほとんど存在しない。

LP、いわゆるランディングページの存在はそこから集客をしていくことが目的ではあるが、検索するとヒットするホームページがどれもこれも同じようなデザインで構成されていてマーケティング要素がほとんど皆無である。

SEOにおける一定条件と時間を経たものは上位には上がってきてはいるが、ほとんどは

有料の広告費を投入したもので上位を寡占して、比較的予算に余裕がある大手が膨大な広告費を投入しているだけで、実はマーケティング要素はそこには何もないということになる。

下手な鉄砲数打てば当たる理論でそれが成り立っているだけで、潜在ロスは相当なもので、企業側とクリエイター側がそもそも「マーケティング」を理解していないのだから

なんとも程度が低い状態で世の中の「お金」が回っていくことになる。

車に例えるなら「昔のアメ車」である。ガバガバとガソリンをぶち撒けながら走る車みたいなものであろう。

一方で登録者数300万人とかいるようなインフルエンサーにおいても実際何も知らないということがほとんどで、たまたまインフルエンサーとして有名にはなったが、実業は何もわからない人間だったことがわかり驚いたという話を聞いたことがある。

国際政治の議論においてもいわゆる「素人インフルエンサー」のような人間が沢山台頭しているおかげで言論空間は大いに荒れている。

出版にせよ、過去は出版能力がある人間、発信出来る人間というのは限られていたものだが、インターネットの発達のおかげで能力に関係なく発信が可能になったことで、役に立たない情報が随分と沢山増えたことが昨今における言論空間の乱れにつながっている。

先日、久々にリアルの友人とタイムラインで軽い討論をしたが、「プーチンは西側が腐敗していると言っている」といったファクトが皆無で、それ以上の議論をする気が失せるような内容の話が始まり、西側の経済制裁は有効ではなかったというが、ルーブルの価値がおよそ14分の1まで下落、ワグネルへの武器供与と支払いの遅れ等が重なり、プリゴジンの乱が起きた一因であることを考えると経済制裁が有効であったわかりやすいケースであると思うのだが、それ以上議論を引っ張るのも面倒くさかった為、返信すらしていない状態である。

経済制裁の成功は「何を持ってして成功」というのかといった基準の問題もある。

ロシア国民が貧困と寒さに震え苦しめば経済制裁は成功と言えるのか、もしくはプーチン政権が瓦解した瞬間を持って成功と言えるのか基準は定かではないし、面倒くさいので確認するつもりもない。一般的な視点で見れば西側が腐敗しているなら、ロシアはより一層腐敗していることになるだろうし、腐敗の基準すら明確ではないのだから議論にすらならない。

そんなことよりも今、私が担当しているクライアントの事業立ち上げで忙しくて正直、その手の議論はどうでもいいし、金にもならないことに時間を使いたくもないし、次から次へと持ち込まれる案件を処理することで頭が痛い状態である。

よって、素人インフルエンサー如きに惑わされる種類の人間を相手にすること自体が時間の無駄であるということで、この話の締めくくりとしたい。

 

 

 

 

傀儡政権が核を持つことで豹変する可能性がある。

左:プリゴジン 右:ベラルーシのルカシェンコ大統領

ロシアの傀儡政権と揶揄される傾向があったベラルーシの勝手に抱く印象はそのまま

ロシアの傀儡(言いなり)として存在する国というイメージだが、プーチンに反するプリゴジンがそこを拠点にすることで、ロシアの核をどの程度コントロール出来るかはわからないが実質の危険な「核保有国」になる危険性が出てきたことになる。

>>

BBCニュースより

ベラルーシ領内からの核兵器の使用について、アレクサンドル・ルカシェンコ大統領に、BBCのスティーヴ・ローゼンバーグ・ロシア編集長が6日、直接質問した。

ウクライナ侵攻を続けるロシアのウラジーミル・プーチン大統領は6月、ロシアの戦術核兵器の第一陣がすでに、隣国ベラルーシ領内に配備されているとし、今夏の終わりまでに移送作業を完了するだろうと述べた。

ベラルーシの首都ミンスクにある大統領公邸「独立宮殿」ではこの日、ルカシェンコ氏とジャーナリストとの「対話」が約4時間にわたって行われた。

BBCのローゼンバーグ編集長は、ロシアの雇い兵組織「ワグネル」の部隊に、ベラルーシ領内からウクライナを攻撃することを許可するつもりなのか、そして、ロシアの核兵器を実際に使用するつもりなのか、ルカシェンコ氏に質問した。

ルカシェンコ氏は「自分たちに対する侵略行為があれば」それに対応するなどと答えた。

ワグネルは6月23日から24日にかけ、「正義の行進」と称してロシア南西部の軍事拠点を占拠。首都モスクワへ車列を進めたものの、残り数百キロメートルというところで前進を中止し、撤収した。

この反乱後、ロシア政府はワグネルの創設者エフゲニー・プリゴジン氏が隣国ベラルーシへ移動することなどで合意。ワグネル戦闘員にも、正規軍と契約するか、帰国するか、あるいはベラルーシへ移動するかの選択肢を与えた。

>>

ファクトを無視したネットを徘徊する陰謀論者は「プーチンプリゴジンの自作自演」説をネットにばら撒いていたりするが、物理的に24時間で一体何を炙り出せるのか。

ロシア内部に潜む敵を炙り出す為の情報戦と声高に叫んでいたりする。

単純な論法かもしれないが陰謀論者に対する「逆張り」を前提に考えた方がまだまともな考察になるが、実質、ヒューミント情報がなければ、今回のそれについては何もわからないという結論が現時点では正しい。公開情報で判断するのであれば、最前線で戦うワグネルに武器弾薬を一定以上渡さないロシアに対するプリゴジンの怒りが爆発してモスクワへ進軍に至ったという結論になるが、一方で反乱を恐れていたロシアがワグネルへの武器弾薬の供与を制限していたと考えることも出来る。

現在進行形の出来事はどこか「玉虫色」的な考察になる。

イムリーに現場の最中にいるわけでもなく、シギントで直接的な会話がやり取りが見えているわけではないのだから断言する材料は基本的には存在しないのが普通である。

格闘技を引退した選手が実況放送席で、どちらかは有利という話はするが勝敗については決して断言はしない理由は只今、只今で刻々と変わる戦況においては断言が難しいことと、その厳しさを知っていることで、勝敗を断言しているのは外野ばかりである。

世の中にこれほどまでに陰謀論がまかり通る前提としては「断言」した方が強烈なメッセージ性があるということである。

#ウクライナ侵攻

実は子供も大人も正しい定義を知らない前提で議論が進むことによる齟齬について

最近、気がついたことだが議論になった場合、そもそもの定義が違うことに気が付かされることがある。

カレーライスか、ライスカレーかといった話は過去に聞いたことがあるが、読み方が違うだけで同じ物ではあるが、表面的に同じ名前のものでも捉えている中身が全然違う場合がある。

子供同士の議論では社会経験不足で起きがちな話だが、小学生時代は昆虫博士と言われる程、地元の小学生ではおそらく自分がナンバーワンを語ってもいいレベルで昆虫には詳しかったはずで、3歳の頃から昆虫図鑑を借りる為に図書館に通っていたことからもそれは大体、想像出来るはずだが、子供達に人気があった「バッタ型」「キリギリス型」の昆虫の話を例えに出すと、褐色のキリギリス科の「ヒメギス」という昆虫が地元におり、幼虫期の姿は羽が短い為、カマドウマ、いわゆる「便所コオロギ」と揶揄される昆虫はバッタ目カマドウマ科である。

カマドウマ

ヒメギス

コロギス

何故か、便所コオロギと揶揄されるカマドウマが何故か地元では珍しい昆虫だった為、子供達の関心は昆虫カーストでは比較的上位に位置するキリギリス科よりも軒下を徘徊するカマドウマの方に向かっていたことがあった。

子供の一人が「カマドウマを捕まえた!」と大騒ぎしていたが、手に持っている褐色の昆虫は「ヒメギス」だったが、区別がついていなかった為、それは違うと教えてあげたのだが、頑なに「カマドウマ」だと譲らず、結果的に何故か他の子供等を巻き込んだ口喧嘩へと発展したのだが、昆虫図鑑と実際の実物を知っている自分はその違いについて説明したものの、全く話が通じなかった記憶がある。

似たようなことは弟との対話でもあり、あそこの草原には「コロギス」がいるという話をしていたが、コロギスに似た別のキリギリス科の昆虫であり、自分も勘違いしたぐらいだが明らかに違うという結論に達したことがあった。

幼少期の頃から、物事の具体的な違いについて気が付くことが多かったが、周囲の子供達はそうではなかったことが他の分野でもあり、社会経験と知性がまだ十分に育っていないことが原因だと思っていたが、年齢の高低に関係なく大人になっても同様の事例があった。

私は陰謀論は否定派ではあるのだが、陰謀の存在そのものは否定してはいない。

先日、政治家の裏には黒幕がいるいないという話で盛り上がったが、その時に「あんたは陰謀論を否定してるじゃないか」と言われたことで、大きな齟齬があることに気がついたのだ。

陰謀とは誰かが裏側で権謀術数を画策する場合を指すのだが、世の中の陰謀論はそれとは違う。

陰謀論の問題点はファクト(事実)がなく、裏取も全くしていないのに断定してしまうことで、例えばワグネルのプリゴジンプーチンが「内部の敵を洗い出す為の旗艦作戦!流石は情報戦!」等と謎の主張を垂れ流したりすることであり、推測、憶測、主観の域を出ていないという前提があるならわかるが、さも千里眼の持ち主かのような感じで、推測、憶測、主観が「そうに違いない!」となることである。

G7もそれと敵対する国だって国益を考える裏には「陰謀」は普通にあるに決まってるだろうし、むしろ陰謀があった方がいいのは日本ぐらいだが、陰謀を企てる能力すらない政治家で溢れていることがそもそも問題であると考えている。

話は少し逸れたが、定義付けは一般の人が考えるより重要であるとは思う。

プログラムのソースも定義付が曖昧であれば成立はしない。

いわゆる「底辺」と揶揄される人間にこの定義付の能力が低い傾向があるように思えるのだが、誤った「定義」が「観念」、「自己限定」が「価値観」になることでその後の未来を潰していく可能性があることを考えると人はどこかで誤った「定義」で物事を判断しているのではないかと思った次第である。

 

 

 

政治と宗教の話しをしてはいけない理由

f:id:kanameeight:20230629195410j:image

政治と宗教の話しはプライベートでは基本的にしないスタンスではあるが、それは状況によりけりであるが、熱量のある勘違い人間はそれとわかった瞬間に議論はしないことにはしている。

ありがちな話しでは「安倍が独裁者」という話しで、議会民主主義において独裁が不可能なことは、基本的なことを理解していれば生じない齟齬ではある。

政治観と宗教観は、最初のキャッチコピーに相当する一行二行の言葉で誤解と齟齬を産む感があるが、そこに先入観とそれを語る「人物像」が加味されることで、ますます複雑化していく性質のもので、理論、教理というより想像以上に「人に紐付く」傾向があり、随分前に動物占いの話しを聞いた時に人間を大雑把に二つにわけると、人で決断を左右する、もしくはされる「ヒト思考」、価格等の損得や価値で左右される「シロ思考」という基準があるらしく、恐らくは共産主義的な唯物史観の人間はシロ思考に近く、ヒト思考の人間は損得より「誰がそれを介してるか」であり、政治、宗教の話しはヒト思考的な影響力が強い感がある。

大きく大別しただけの話しで、シロの中のヒト、ヒトの中のシロは当然あるとは思うが、物事は後の先、先の後、等、表裏一体になっているものではある。

こと、政治及び宗教の話しについては人物の色が意外と反映されてしまうもので、読解力の高低によっては揉め事の種になりやすい。

これは一方では「観念の枷」が頭にかかっている感があり、禅宗は数あれど、この観念を取り払うことが参禅の一つの目的である。

二元論で物事を語ることを諌める中で修行が進んではいくものの、例えば蒙古襲来時に元の使者を片っ端から打首にした時宗の判断は無学祖元の教えに沿った極限的な判断ではあると思う。

話しが大幅にそれてしまったが、誰が語るかで

評価が変わる要素がふんだんにあるのが政治と宗教であり、知性と読解力の高低と観念にしばられている前提で考えると炎上しやすい傾向がある。

知性と品性が脆弱なマスコミがこれをよく話題にして炎上させている様を見ると、そのように感じる。