K・リテラシー

ジャーナリストKANAME EIGHTの8つの視点から持論を展開。

政治と宗教の話しをしてはいけない理由

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政治と宗教の話しはプライベートでは基本的にしないスタンスではあるが、それは状況によりけりであるが、熱量のある勘違い人間はそれとわかった瞬間に議論はしないことにはしている。

ありがちな話しでは「安倍が独裁者」という話しで、議会民主主義において独裁が不可能なことは、基本的なことを理解していれば生じない齟齬ではある。

政治観と宗教観は、最初のキャッチコピーに相当する一行二行の言葉で誤解と齟齬を産む感があるが、そこに先入観とそれを語る「人物像」が加味されることで、ますます複雑化していく性質のもので、理論、教理というより想像以上に「人に紐付く」傾向があり、随分前に動物占いの話しを聞いた時に人間を大雑把に二つにわけると、人で決断を左右する、もしくはされる「ヒト思考」、価格等の損得や価値で左右される「シロ思考」という基準があるらしく、恐らくは共産主義的な唯物史観の人間はシロ思考に近く、ヒト思考の人間は損得より「誰がそれを介してるか」であり、政治、宗教の話しはヒト思考的な影響力が強い感がある。

大きく大別しただけの話しで、シロの中のヒト、ヒトの中のシロは当然あるとは思うが、物事は後の先、先の後、等、表裏一体になっているものではある。

こと、政治及び宗教の話しについては人物の色が意外と反映されてしまうもので、読解力の高低によっては揉め事の種になりやすい。

これは一方では「観念の枷」が頭にかかっている感があり、禅宗は数あれど、この観念を取り払うことが参禅の一つの目的である。

二元論で物事を語ることを諌める中で修行が進んではいくものの、例えば蒙古襲来時に元の使者を片っ端から打首にした時宗の判断は無学祖元の教えに沿った極限的な判断ではあると思う。

話しが大幅にそれてしまったが、誰が語るかで

評価が変わる要素がふんだんにあるのが政治と宗教であり、知性と読解力の高低と観念にしばられている前提で考えると炎上しやすい傾向がある。

知性と品性が脆弱なマスコミがこれをよく話題にして炎上させている様を見ると、そのように感じる。