例えば武道の話ですが「明鏡止水」の境地を目指すのが正しいのでしょうか
ある武道家は「明鏡止水」は老人の戯言と心得よ、真髄は非常心にこそあると喝破していることがありました。
明鏡止水の境地を目指して、頑張りある日「私は明鏡止水の境地を目指して頑張っているます」と言ったところ「馬鹿者、真髄は非常心にある」と。
タクティカルコンバットの達人は非常心を説いていました。
これ今ならよくわかります。明鏡止水の境地は恐らくはもっとハイレベルな境地で
非常心の延長線上の更に上のレベルにあるものが恐らくは明鏡止水の境地であると。
非常心を忘れ「明鏡止水」という浅い境地にいた場合、斬り殺されるか撃ち殺される
リスクを達人は説いている訳です。
何事もそうですが、思い込みは非常に危険で違う場合は私の場合は遠慮なく
「違う」といいます。
私の身近にいる諸先生方も他は知りませんが私には「それは違う」と大体話していることの半分以上は否定されるものです。
そこから、では正しくは何ですか?という次のステージへ移行することが出来る訳です。
諸先生達はどうでもいい相手には「そういう考えもあるよね」「人それぞれだよね」と
軽く流している様を見ると私はゾッとします。
相手にされていないということであり、自らの成長の機会を失うことになるからです。
最近、私はややキツめの発言が多いと指摘されることが度々ありますが、適当な対応で
満足なら適当に対応しますけど?という話です。
オカルト系の相談も随分増えましたが、相談者のほとんどは私に「全否定」されてます
違うものは違うのです。違うものを「そういう考えもあるよね、人それぞれだよね」で
流す程私は無責任な人間ではありません。
私を執拗に誘う新興ビジネスの女性には遠慮なく「違う」と言ってあげました。
少なくとも私のことは信頼していたからでしょうし、それに答えるのが礼儀だと判断
したからです。
「あなたはいつの間に論破主義になったのですか?」と捨て台詞を吐かれましたが
真実を突かれることは言われる側にはきついことかも知れませんが
何も言われずにスルーされている人間も多く存在するということに気がついて欲しい
ものです。