K・リテラシー

ジャーナリストKANAME EIGHTの8つの視点から持論を展開。

【情報】言論空間は江戸時代さながらの様相であるは言い過ぎではない気がする。

情報について語ろうと思うのだが、日頃何かとお世話なっているU先生との対話の中で日々感じることを述べていこうと思う。

 

正直な話、自分が偉そうに情報について語ること自体憚れるのだがそう考えても、現在私が立っている入り口にすら到達していない人々については何かしらの思考作業について一石を投じることにつながれば幸いと考えて本投稿を進めていこうと考えている。

 

すでに一年の歳月が過ぎようとしているウクライナ侵攻について喧々諤々の議論が展開されているが、一部元自衛隊員による専門的(局部的)な戦闘についての解説は別と考えて、全体的に情報が全くアップデートされていない

ように見える。

 

朝令暮改という言葉があるぐらいで、状況は刻々と変わり、昨日聞いた情報も翌日には過去のものになる。極端な話、今聞いた情報も数分後には「過ぎ去った過去」になる。

 

現代の戦争及び、経済戦争は「先例」がベースにあって進んでいるのだろうか?

技術は確かに先達が作り上げた技術がベースにあってそこから発展をしていくことは間違いはない。いきなり鉄筋コンクリート製のビルを作ることが出来た訳ではない。だが新しいテクノロジーや文明が生活のベースになると当然ながら物流速度も情報伝達の精度も在り方自体が全く変わってしまう。身近な話をすると、ミュージシャンに「これ僕のCDなんで聴いてください」と言われてもプレイヤーが既にレアな存在になりかけている現在、もとい余程のマニアではない限りはCDプレイヤーなんて自宅にはほとんど存在しないのではないかと思われる。

そんな環境下でCDなんぞ渡されても正直、困るし迷惑だったりする。

今はQRコードで視聴サイトを案内するか何かで伝達方法が10年前の音楽シーンとは

大きく様変わりしている。

 

一方で国際政治や世界情勢を語る上において、いまだにCDを渡して僕の音楽を聴いてください的な古典的なスタンスで物事を考えて世に喧伝しているメディアや情報に関わると思われる人を見ていると大丈夫なのだろうか?と思うことが多い。

 

芸能シーンを見ても、ほぼ都市伝説化している芸能事務所の圧力等は過去と現在では全然異なっているし、暴対法が出来る前の暴力団と今では全然異なっているのと同様に、各国の軍事戦略、考え方全てが過去のパラダイムから打ち出されるものではないことは容易に思いつきそうなものだが何故か、イケイケどんどんだった終戦当時の悪辣な側面もあった米国が今も存在する前提で話が展開されるところを見ると、例えばそれは現在の日本が「ちょんまげ」で歩いている武士がいまだに存在していることを信じている様と被る。

 

極端な表現かもしれないが、世の中の言論空間を見てるとほぼほぼ情報がアップデートされていない感が満載である。

現在進行形の情報に触れていると少なくとも、報道されている、誰かが論評している話で正しいものは1%あるかないかぐらいで全く参考にならないのだ。

明治維新は当然、先例なんぞ存在はせず、その場その場で維新の志士たちが適宜判断を行っていたはずである。先例主義に縛られていたら、近代兵器で侵攻してくる欧米列強に対して日本はいまだに日本刀で立ち向かっていたに違いない。それがいかに非現実的であるかはよくわかると思うのだ。